◆ 北摂東eやんタウン
 あの街・この街 歴史探訪
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【摂津市】 ★離宮「鳥養院-とりかいいん-」址(鳥飼上5丁目)
◎淀川は、平安京より天王寺・住吉・高野山・熊野への参詣や西国の任地へ下る地方官が多く利用していました。天皇・上皇をはじめ多くの官人たちの往来が文芸に残され、当時の淀川筋の光景をほうふつとさせています。「大和物語」では亭子(ていし)院(宇多天皇の号)がこの地を訪れたことが記されています。また、このあたりが「御所垣内(ごしょがいち)」(字名)といわれていたことから、この付近に離宮があったと思われます。
【摂津市】 ★囲み堤(鳥飼上1丁目)
◎淀川流域は昔から長雨や豪雨になると、河川が氾濫し、人々は洪水から稲作を守る戦いを繰り返してきました。慶長元年(1596年)、豊臣秀吉は大規模な淀川堤防修築を諸国の大名に命じ、「慶長堤」(輪道=わんど)を完成させました。当時「輪道」は水防施設であっただけでなく、淀川の渡し場で下船した人たちが、西面・富田(高槻市)や大阪方面に往来する道として利用し、有事の際には軍事的要塞となり、経済的・軍事的役割を果たしました。堤の一部は現在も道路として利用されており、淵ヶ池公園に囲み堤を説明した石碑が建てられています。
【摂津市】 ★鳥養牧-とりかいまき-跡(鳥飼下3丁目)
◎延長5年(927年)に完成した「延喜式」では、当時の牧は三種類に分けられていました。皇室の科馬を供給する御牧(勅使牧)、兵馬・用役牛の飼育を目的とする諸国牧(官牧)、および都(京都)の周辺に設けた近都牧です。当時牛馬は、ひき牛や乗馬用として多く利用され、特に都では大宮人にとって牛や馬は欠くことのできないものでした。鳥養牧は六牧あった近都牧の一つで諸国から運ばれた牛馬を飼育し、必要に応じて都にひいてこさせるために設けた牧です。この牧が現在どの範囲に広がっていたかはっきりしませんが、馬島(淀川本流にかつてあった島)・本牧(字名)・五久「御厩」(字名)などという地名の名残から、ほぼ現在建っている石碑を中心としたあたりと思われます。
【摂津市】 ★三本松天神社-さんぼんまつてんじんしゃ-跡(鳥飼西1丁目)
◎延喜元年(901年)正月、九州の太宰府に左遷された菅原道真が赴任の途中、鳥飼の地に船を着け食事の後自ら楊枝松を植え、この木が生育することを願って神社を建立したと伝えられています。「摂津名所図絵」には「管公筑紫御下向の時ここに船をよせ給ひし旧跡なり。この村に下り松、義経松、踊り松とてあり」と記されています。この三本の松から、神社の名が起こったとされています。昭和36年の淀川堤防改修で境内が削り取られ、鳥居だけを残すのみとなりましたがそれも昭和58年10月に別府1丁目の中真神社に一部補修し、移転されました。
【摂津市】 ★恵照院殿釈寿栄大童女の墓碑(一津屋2丁目)
◎元禄13年(1700年)6月、松平縫殿頭乗成が大坂城へ赴く途中息女の急逝にあい誓源寺(浄土真宗本願寺派)にほうむり、墓碑を建て菩提所として丁重にとむらいました。宝暦2年(1752年)菩提供養のため、松平家より藤原国次鋳造の梵鐘と鐘楼が寄進され、梵鐘は第二次世界大戦中に供出されましたが、鐘楼堂は現存します。この墓碑にまつわる後日談があります。天明5年(1785年)松平下野守と松平縫殿頭の玄孫(孫の孫)兵部少輔乗友が墓参した時、付近の田が一面に水をかぶっているのに不審をいだき、そのわけをただしたところ排水不良のためとわかり、幕府の許可をとって排水(井路)を開削したので稲作が安定しました。
【摂津市】 ★味舌天満宮-ましたてんまんぐう- (三島3丁目)
◎奈良柳本藩織田大和守尚長は当地味舌生まれで、織田信長とは十三歳違いの弟である織田有楽斎長益の五男でもあり、寛永12年(1635年)に現社殿(本社本殿および摂社八幡神社殿)を造営しました。本社本殿と摂社八幡神社本殿は細部の様式すべて同一であり擬宝珠銘も全く同じです。正面の柱の間が一つしかない一間社流造で、檜皮葺屋根の庇に沿って付けた板「破風」に特徴的な装飾が施されています。蟇股や木鼻の絵様など変わった形ながら古風。庇木鼻の獅子頭など江戸前期の典型といえます。本社本殿と摂社八幡神社本殿は平成5年11月24日に大阪府指定有形文化財に指定されました。
【摂津市】 ★三宅城-みやけじょう-址(千里丘東1丁目)
◎戦国時代、この付近に三宅出羽之守國政が永正1年(1504年)に築いた「三宅城」がありました。天文16年(1547年)、時の管領職細川晴元は総勢力を投入し、2月25日に三宅城を包囲しました。戦況不利と見た三宅國政は、3月晦日に降伏し、城を明け渡しました。三宅村誌によると、その頃の城の広さは、東西576メートル・南北540メートルで、この中の小高い所に、南北270メートル・東西180メートルの本丸があったと記載されています。また中世の城で重要な防御施設である逆茂木を設置、大手・二の木戸を構えていたことが文献に記されています。その後、香西元成が城主となりましたが、三好長慶との争いに破れ、三宅城は永禄5年(1562年)に消滅してしまいました。
【摂津市】 ★流れの馬場-ながれのばば- (千里丘東3丁目)
◎元亀元年(1570年)から本願寺と織田信長が戦った石山合戦で、本願寺の末寺である勝久寺の住職頓恵は、摂津・河内・和泉の僧俗数千と、石山本願寺にたてこもりました。天正8年(1580年)3月17日に本願寺と信長は和睦しました。同年4月9日、顕如の石山本願寺退去にともない戦いに加わっていた住持・門徒も帰村しました。しかし顕如の子、教如が徹底抗戦を呼びかけ、勝久寺門徒はこれに呼応しました。そして、法義談合を行っていた5月28日、不意に信長軍に襲撃され、堂舎を焼き払われたうえ、多数の門徒たちが捕らえられて殺害されたといいます。そのため、あたり一面は血の海となったので、寺の前方を流れる境川を「流れの馬場」の古戦場として今に伝えています。
【摂津市】 ★弥栄の樟-やさかのくす- (千里丘東5丁目)
◎天保14年(1843年)の嶋下郡(しましもごおり)味舌郷の図面に「金剛院持」と記されている弥栄の樟は、かつてこの付近も金剛院の一部であったことを物語っています。聖武天皇の天平年間(729〜48年)の植樹という伝承があり、昭和初期の味舌村は「弥栄の樟」と命名して、厚く保護をしていました。「弥栄の樟」は平成元年に「大阪みどりの百選」の一つに選ばれています。
【摂津市】 .★金剛院-こんごういん-(千里丘3丁目)
金剛院は、蜂熊山と号して真言宗に属し、薬師如来を本尊とします。寺伝によると天平十年、行基菩薩自ら薬師如来座像を刻み、本尊とし、放光山味舌寺と名付けました。その後、鎌倉時代の初頭、賊徒が此の地に蜂起したおり、官軍敗退し、これまでという時、当寺薬師如来に祈念したところ、これに呼応するように、山内より群蜂が出現して勝利を得ることができました。その折り戦死した蜂を埋め供養したのが、今も寺内に現存する「蜂塚」です。珍菓の味より名付けられた味舌寺はこれより、寺名を蜂熊山(霊蜂山)蜂前寺金剛院と改められました。
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